“諦める”を再定義してみる
さて、僕たち氷河期世代が人生を再構築するために、これからどうすればよいのでしょうか。ただ立ち尽くすことしかできないのでしょうか。
人生を変える必要があるあなたがまず始めに行うことは、いくつかのことを“諦める”ことである、というのが本シリーズで強く提案したいことのひとつです。
「なんだ、そんなことか」とお想いでしょうか。
人生の理念や目的を明確に掲げ直すためには、子どもの頃から植え付けられた、あれもこれもやらなければならないという呪縛からあなた自身を解き放つこと、
本当にやりたいことを見つけ、達成するためにまず始めに行うことは、今あなたが日々続けているいくつかのことを“諦める”という実践が必要です。
“諦める”という行為の先には、他に本当に必要な作業に集中できるという“話の“継続性”があります。
“諦める”ことは本当に生きたい自分を生き直す始まりだと定義し直すわけです。
この言葉の語源は“明らかに見る”ということなのだそうですが、それがどうしても受け入れ難い方は、“手放す”と表現するのはいかがでしょうか。
少しハードルが下がると思います。
この“諦める”あるいは“手放す”ための具体的な“戦術”が、これからご提案するあなただけの「ルーティーン」構築になります。
ぜひとも“形から入る”ならぬ、“型から入る”ことで人生のリストラクチャリングを行いませんか。
なお、本来「型」と「ルーティーン」は似て非なるものというご指摘もあるかと思いますが、昨今のトレンドを意識し、おおむね同様の意味で使用することにしています。
「スポコン」漫画
“諦める”という言葉に対して、肯定的なイメージを抱く人は少ないでしょう。
特に僕たち「氷河期世代」か、それより上の世代においては顕著だと思います。
少しだけ僕の話を例にあげます。
僕は日本の過去の栄光とされる、いわゆる「中流家庭」に生まれました。この環境を与えてくれた両親や祖父母、大勢の先人たちには心から感謝しています。
贅沢はできませんでしたが、ある程度のものは買ってもらえたし、好きな漫画をたくさん読むことができました。
僕たちの子供時代の漫画と言えば、もちろん「スポコン」全盛期ですよね。サッカー、野球、格闘技からアドベンチャー、他にも美少女戦隊ものなど、あげればきりがありません。
僕たち「氷河期世代」の成長過程はこの「スポコン」漫画の隆盛とともにあったとも言えるでしょう。
これは僕たち世代の精神的な支柱の一つになっているのではないでしょうか。
友情・努力・勝利。
漫画の登場人物達は、どんなに絶望的な状況であっても決して“諦めず”、厳しい修行や努力を一時も忘れずに行い、一切の言い訳をせず、団結して常に前へ前へと進み続けます。
そして最後には信じられないような奇跡を起こし、強大な敵を打ち破る・・・。
そしてそれらはどれを取っても美しい物語ばかりです。あなたも好きな漫画のシーンや登場人物がありありと浮かび上がってくるのではないでしょうか。
しかしながら、この輝かしいストーリーこそが、中年となった僕の心を過剰に縛り続ける鎖になっていたのではないかという恐るべき仮説に辿り着きました。
漫画やドラマの主人公たちは、いついかなるときも全身全霊でひとつの目的だけに集中しています。
「“諦め”るな! 全力を尽くせ! 一切の妥協をするな!・・・」それは美しい物語なのですが、幼少期の学校教育と重なり、倒れるまで僕を追い込んでしまい、全ての事柄に完璧を目指すことを要求する危険な呪縛になっていたことに気づきました。
もちろん「スポコン」漫画を嫌いになれということではありません。それらはあくまで美しいストーリーたちです。
少し極端過ぎる例をお話ししましたが、僕が伝えたいことは、自分が完全無欠の主人公でなくても良いということを、僕自身に赦すと決めたことです。
僕たちはあれもこれもしなければならないし、あれもこれも所有している。これでは心が重すぎて、人生という“試合”が始められないのです。
最後に大批判を予測しながらも、僕たち「氷河期世代」の心の奥底まで届くであろう挑戦的なコピーを提示したいと思います。
「“諦め”たらそこで試合終了」ですか? いいえ、「“諦め”たら、試合開始」です。
コメント