「集合的アダルトチルドレン」
唐突ですが、僕は本シリーズ記事を描くにあたり、少しショッキングかつ大胆な仮説を持つに至りつつあります。それは、
「戦後育ちの日本人、大なり小なり大体アダルトチルドレン説」なるものです。
少し戯けたネーミングの仮説ですが、大真面目に提唱します。
もちろん解説していきます。
まず、「アダルトチルドレン」と言う言葉はご存知でしょうか。どこかでお聞きになった方も多いかと思います。
この言葉はもともと米国の家庭で、アルコール依存症の親を持つ子供が大人になった時の性格的傾向を表すものだったようです。
それが伝播し、日本でも少しずつ認知され始めたようです。
その特徴的な性格的傾向はさまざまな本やサイトに見受けられるのでいくつか列挙してみます。
・他人の目が気になり、自分の意見が言えない癖がある。
・我慢を溜め込みやすい。
・疲れやすい、慢性的な症状がある。
・周囲の人が楽しそうにしていても、同じように心から楽しむことができない。
・劣等感や罪悪感が強い。
・人間関係で孤独に陥りやすい。
・得体の知れない不安に襲われることがある。
・他人のようになったり、自分以外の者になりたいと思うことがある。
・自分には存在価値がないと(無意識的に)思っている。
・人生の決断をするとき、親や周囲がどう思うか気になってしまう。
・完璧主義である。
・自信がない。
・自分のやりたいことがわからない。
いかがでしょうか。
氷河期世代のあなたにはいくつか当てはまりませんか。それともほとんど全部ではないでしょうか。
読んでいると、どうやら自己肯定感が高いか低いか、このあたりがポイントのようですね。
側から見ると、自己肯定感の高い人は総じて明るく朗らかで、生き生きと輝いて見えることでしょうし、ちょっと他人から非難された程度ではびくともしません。
ちなみに僕が個人的に定義する自己肯定感を持つ、あるいは高いというのは、
「わたしが、ただここに生きて、ただここに居るだけで、価値がある」というものです。
何かに対して頑張ったからではなく、何かの結果を出したからではなく、テストで良い点数をとったからでもないということです。条件なしで、ここに存在していいということです。
先程の仮説に戻ります。
「戦後育ちの日本人、大なり小なり大体アダルトチルドレン説」のお話でしたね。
記事の冒頭で触れましたが、
僕たちはほとんどの世代が例外無く、子供時代に自分を肯定するためには、もっと言えば褒めてもらったり愛情を受け取ったりするためには、何か頑張ったという条件付き出ないと受け取れないという強力な檻の中で育ってきたとは言えないでしょうか。
家庭・学校教育と社会構造分析
これは特定の世代に限ったことではありませんが、日本の家庭・学校教育においては、勉強では得意科目を伸ばしても思うように褒めてもらえず、苦手科目で悪い点を取れば何度も何度も叱られ、いかなる言い訳も認めずその弱点を克服するよう指導され、平均的に全ての分野で良い点が取れるようにと刷り込まれているように思います。
毎日勤勉にコツコツ努力すること、規則正しい生活をおくること、ルールや親・教師の言うことを忠実に守ること・・・それができない人の多くは度重なる叱責を受け続けてきたはずです。
もちろん人間の指導や教育、発展のためには厳しい指導は不可欠であることは言うまでもありあません。
しかしながら、小さいころからたくさん叱られていると、自尊心が低い人間に育つということが、現代の心理学の中では判明してきているようです。
自尊心の低い人間は、当然自分を大切に扱おうとしませんし、科学的“エビデンス”においても集中力の低下傾向が見られるそうです。
心身を壊すまで残業を続けたり、うつ病を多数発症するなど、日本人は世界的に幸福感・多幸感が少ないことはさまざまな統計データでよく知られているところですよね。
これが中年期に差し掛かった人間にはさらに追い討ちをかけます。
もともと、中年期になると肉体的・精神的にエネルギーが衰え始めますし、社会的にも大きな責任がのしかかるなど、社会的プレッシャーから元気を無くす人が多いと言われています。「ミドルエイジクライシス」なんていう言葉でも表現されますね。
そしてアダルトチルドレンなるものは、大人になっても子供時代に親や教師にきつく叱られていた記憶が体内にこびりつき、それも中年期に自己肯定感の低さ、もっと言えば無価値感が強く発現するのだと僕は感じています。
本記事を読んでいるあなたが、幸福感いっぱいの心持ちであるとは想像できません。
そして経済活動が主軸となる現代においては、特に職業的性格が生まれ育った世代に強く影響を受けることは間違いないことだと思いますが、やはり僕たち「氷河期世代」は、端的には恵まれた世代ではなかったと言えそうです。
もちろん一般に恵まれていたと言われる「バブル世代」でもリストラされてしまった人もたくさんいますし、「ゆとり世代」と呼ばれる方であっても「リーマンショック」の影響で不遇だった人もたくさんいます。
世代間の「ヘイトスピーチ」は何も生み出しません。
ただ、いずれにしても日本の職業的社会構造を社会心理的な側面から見つめ直すと、子供のころに傷ついた自尊心を、数十年という時間をかけて社会の中でゆっくり回復するという社会システムがいつの間にか存在していたと言えないでしょうか。
そしてその自尊心の回復の前提として、「未来はきっと良くなる」という“希望”が持てるからこそ、今辛いことも将来の糧になると信じて、人は前を向くことができたはずです。
そして、今の僕たちに未来がよくなるという“希望”は見つかりそうでしょうか。
成長する中で、たくさんたくさん辛い思い出を持っているあなた、この社会にいつの間にか存在していた“伏線”を回収できそうでしょうか。
本シリーズを書くにあたっては、想いが溢れるように出てきてしまい、いっときには描き切れません。よろしければしばらくお付き合いください。
なお、タイトルにある“集合的”というのは、有名な心理学者であるユングの“集合的無意識”というのを文字って見たものです。厳密には“集合”とか“集合的”といった表現が当てはまるのかもしれません。
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